2009年度第1学期                       入江幸男

学部:哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」

大学院:現代哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」

 


              第二回講義(2009年4月17日)

 


■先週のまとめと補足

●観念論と物理主義の対立

@観念論は、外界の知覚の原因として物自体を想定する必要を否定していた。

A心の哲学では、脳と心の間の因果関係を認めることが出来ず、付随する(supervene)という言葉でその関係を表現した。これは物理主義とか唯物論とよばれている。

 

両者は、共に一元論であるが、観念論と唯物論という対立する立場であり、物から出発するか、心から出発するかと言う違いがあり、ともに、他方に移ることができないでいる。つまり、物から出発して、心の説明に向かうことが出来ず、心から出発して、物の存在証明や物の性質の説明に向かうことができない。この二つの議論では、同一のギャップ、つまり心と物の間のギャップが問題になっている。

 

●アンチノミーの解決方法

このようなアンチノミーの解決方法は、一般的に次の三通りである。

@一方が真で他方が偽である。

A二つは両立する。

B二つはともに成り立たない。第三の選択肢がある。

 

●両者の両立可能性

通常は、観念論と心の哲学における唯物論ないし物理主義は、対立すると思われている。もしこの対立が、<心だけが実在して、外的対象は実在しない>という立場と<物理的対象だけが実在して、心は実在しない>という立場の対立であれば、それを調停することは困難であろう。しかしもしこの対立が、<外的対象の反実在論>と<心の反実在論>の対立であれば、我々はこの二つが両立可能であると考えることが出来るのではないだろうか。この立場を「全面的な反実在論」あるいは full-fledged anti-realism’と名づけたい。

(私が、これを思いついたのは、ジェグウォン・キムのMind in a Physical World (物理世界の中の心』太田雅子訳、勁草書房)の最後に「心的なものの反実在論」(邦訳、p. 167)という表現を見つけたことによる。)

 

そうすると、次に問題になるのは、「反実在論とは何か?」ということである。これには、言語哲学の議論から登場した立場であるので、言語論的な転回のあと、観念論をめぐる議論がどのように変化したのかを、抑えておく必要がある。言語哲学から意識哲学への転回により、論争状況は変化した。それが、観念論対実在論という論争が、古めかしく感じられる理由である。しかし、同じ問題が、言語と世界のギャップとして登場している。

 

●言語と世界のギャップ

@我々は言語の外部に出てゆくことが出来ない。

言語の限界が世界の限界である。(Wittgenstein

 言語哲学は、第一哲学である。(Dummett

A言語は、世界の一部である。

言語哲学は、心の哲学の一部である。(J.Searle)

 言語は、知的直観を表現できない。(Fichte

 

●心の哲学と心と物のギャップへの回帰

心の哲学において、再び心と物のギャップが問題となった。

しかし、ここでは、物から出発して、心をどのように説明するかが問題となっている。

 

●一人称記述と三人称記述のギャップ

フィヒテが言うように、観念論と実在論はそれぞれの内部では整合的な理論であるが、両立し得ないし、共有できる概念や命題をもたないので、論争することもできない。

 

@唯物論は、物についての三人称の記述から出発する。しかし、三人称の記述から一人称の記述を構成することが出来ない。言い換えると、一人称の記述を、三人称の記述に還元することが出来ない。

A観念論は、心や物についての一人称の記述から出発する。しかし、心や物についての三人称の記述に移行することが出来ない。言い換えると、三人称の記述を一人称の記述に還元することができない。

 

@の証明

「私」の用法を、固有名と「彼女・彼」の使用によって済ませることは出来ない。Castanedaは代名詞heのある特殊な用法を指摘し、それを「s用法」となづけ、それを「he*」で表現した。彼によると、次の言明は二義的である。

「雑誌『魂』の編集者は、彼が富豪であると、知っている。」

この編集者をx氏とするとき、x氏が自分のことを雑誌『魂』の新しく決まったばかりの編集者であることを知らずに、雑誌『魂』の新しい編集者が富豪だと信頼のおける人物から聞いて知っているとき、第三者は、上のようにいうことができる。しかし、X氏が、自分が雑誌『魂』の新しい編集者であることを知っていて、自分が富豪である、と知っていると述べている場合にも、第三者は上のようにいうことができる。この区別は大変重要である。そこで、そのような場合を区別して、Castanedaは、次のように表現する。

「雑誌『魂』の編集者は、彼*が富豪であると、知っている。」

そして、この「he*」用法の意味を説明するには、「私」のある用法を必要とすることを指摘した。

もし仮に、「私」の用法が「彼*」の用法によって言い換えられるとしても、「彼」と「彼*」の区別が「私」によってしか出来ないとすると、「私」の用法を「彼」の用法によって言い換えることは出来ないということになる。つまり、一人称の記述を、三人称の記述に還元することは出来ないということである。もし、「私」の用法のなかに、「彼*」の用法では言い換えられないものがあるとすると、このことは、さらに強く主張できる。

 

問題「では、このことから、「私」を用いて行なわれている思考を物理法則による三人称の記述で、説明することは出来ない、ということを論証できるのだろうか?」

 


 

§2 フィヒテ観念論の徹底性あるいは純粋性

 

(フィヒテについては、2007年度二学期の第三回〜第五回の講義ノートを参照してください。)

 

、知的直観の必要性:『知識学の新叙述の試み』(1797)での「知的直観」

 

 この時期のフィヒテが、普通の意識の中に働く「事行」=「知的直観」として具体的に示すのは、「行為の直観」と「思考の意識」である。思考も行為の一種であるので、思考の意識は行為の直観の一種である、と言うことも出来る。しかし、フィヒテが行為の直観を語る場合には、ある行為をしようと意図して、次にその行為が生じるという心的因果の説明が念頭にあるのに対して、単に「思考の意識」という場合には、ある思考を意識するということの説明が念頭にある。

 

フィヒテは、ありふれた対象についてのありふれた意識、例えば壁や机の意識が、知的直観によって可能になることを次のように説明している。

 

「君は何らかの対象――例えば対面する壁――を意識することによって、君がたった今認めたように、本来的にこの壁についての君の思考を意識しているのであり、かつ君がこの壁の思考を意識する限りでしか、壁の意識は可能ではない。しかし君の思考を意識するためには、君は君自身を意識しなければならない。君は君のことを意識している、と君は言う。君はそれにより必然的に、君の思考する自我と、その思考において思考されている自我とを区別する。しかし君がこれを出来るためには、その思考において思考する者が、意識の客観となりうるために、ふたたびより高次の思考の客観でなければならない。すると、君は同時に新しい主観を獲得し、この主観は以前に自己意識であったものをふたたび意識している。」( GAI-4, 274f. SW1, 526)(下線は引用者)

 

このような説明は無限に反復することになる。この困難をフィヒテは、次のように解決した。このようになってしまう理由は、「どの意識においても主観と客観は相互に切り離され、各々が別個のものとみなされる」ということにある。したがって、この主張が間違っているとすればその反対が真である。つまり「主観的なものと客観的なものとがまったく分けられず、絶対に一であり、同一であるような意識が存在する。」(GAI-4, 275, SW1, 527)

 この意識は「直接的意識」であり、フィヒテはこれを「知的直観」(GAI-4, 278, SW1, 530)と呼ぶ。そして、この直観は、「定立するとして自己を定立すること(ein sich Setzen als setzend)」であり、単なる定立ではないと言う。もし単なる定立であれば、定立するものと定立されるものが別のものと見なされることになる(Vgl. GAI-4, 277, SW1, 529)

 以上が、フィヒテの知的直観の説明である。この議論は正しいのだろうか。(6)

 

 

2、フィヒテの主張の検討

 

フィヒテは次のように述べていた。

 

「君がこの壁の思考を意識する限りでしか、壁の意識は可能ではない。」

 

これは、正しいのだろうか。私が壁を見ることは、私が壁を見ることを意識するのでなければ成立しないのだろうか。むしろ、たいていの場合、私が何かを見ているとき、私はそれを見ていることを意識していないように思われる。信号機を見ているとき、信号機を見ていることを意識していないように思われる。もちろん、壁を見ているときに、必要に応じて、壁を見ていることを意識することは可能である。もしかすると、壁を見るためには、壁を見ていることを意識することが可能であるということが、成り立っていることは必要であるかもしれない。(カントがあらゆる表象には「われ思う」が伴いうると述べたとき、そのように考えていただろう。)しかし、現実に壁を見ていることを意識していることは、必ずしも必要ないのではないか。おそらく一般にはそのように考えられている。

 

しかし、フィヒテはそのようには考えないのである。なぜだろうか。

フィヒテにとって、意識や表象は、実体としての自我の作用や属性として存在するのではない。もしそうならば、意識以外に、実体としての自我が存在する事になる。このとき自我そのものはもはや意識ではないことになる。それはいわば物自体としての自我である。この場合には、物自体と意識の両方の存在をみとめる二元論になるだろう。

フィヒテは、バークリ哲学を観念論ではなく、独断論だと述べている。その理由をのべていないのだが、それは次のように想定できる。たしかにバークリは、「存在するとは知覚されることである」という観念論を主張したが、しかし主観の存在については、知覚されることであるとせずにそれを実体と考えたので独断論である。

フィヒテならば、<存在するとは、意識されること(あるいは知られること)である>と言うだろう。この通りの表現は見当たらないように思われるが、これに似た表現はある。たとえば、フィヒテは「あらゆる存在が知性の思考によってのみ生じ、それ以外の存在については何も知らないとする」のが「最も決定的な観念論」(「知識学への第二序論」GAI-4, 237, SWII, 483)であると述べている。ところで、このテーゼは、意識する自我についても妥当するはずであり、自我が存在するとは、意識されていること、つまり自己を意識しているということになる。さらに、意識や表象そのものについても同様である。意識や表象が何かの作用や属性ではなくて、それだけで存在するにしても、それが存在するとは、意識されることないし表象されることなのである。フィヒテは「観念論」という立場を徹底的に考えていたと言えるだろう。

 

問題「フィヒテは、思考する実体としての自我を認めない。これはヒュームと同じである。では、思考や知覚の存在そのものについて、どう考えればよいだろうか。それは、さらに意識されることがなくても、存在するのだろうか?それとも?」

 


 

注 フィヒテ哲学の出発点

 

1、カントに出会う前のフィヒテ:スピノザの影響下のフィヒテ

 カントに出会う前のフィヒテは、当時議論されていた、自由と必然性に関する問題について、時代の影響のもと、必然性の側に傾いていた。しかし、それは、彼の性格と一致せず、内面の深いところでは、不満足で不安定なままであった。 カントによって、厳密な学問的世界認識と、道徳的な自由の確信を統一する可能性を手にすることが出来た。認識が自由を不可能にするのではなく、自由が認識を可能にする。Max Wundt, “Fichte”Frommann, 1976, S. 83.

 カントに出会うことによって、フィヒテが手に入れたのは、観念論の可能性ということである。

 

2、カントに出会った後のフィヒテの出発点、二者択一

 フィヒテは、我々に独断論と観念論の二者択一を迫る。その選択は、決断ないし信仰にゆだねられるのだが。この問題設定を受けれる前に、我々には議論すべきことが残されている。それは、なぜこの中間の立場を取れないのか、ということである。

 

フィヒテは、「二つの体系を折衷して一つにすることは必然的に不整合をきたす」(SW1,431)という。なぜなら、「「たった今主張されたことを要求しようとする者は、物質から精神への、もしくは精神から物質への絶えざる移行、あるいは同じことだが、必然性から自由への絶えざる移行を前提とするような、こうした結合の可能性を証明しなければなるまい。」(SW1,431

 「物質から精神への移行」、つまり物質の作用から、意識内容が生まれることを説明できない、また「精神から物質への移行」、つまり意図したことを身体行為に移すことを説明できない、といことであろう。

「たしかに自我の自立性という表象と物の自立性という表象は両立しうるが、自我の自立性そのものと物の自立性そのものは両立し得ない。」(SW1,432

 ところで、フィヒテは、独断論も観念論もそれぞれ整合的な体系であると考えている。したがって、独断論でも認識と行為を説明できるし、観念論でも認識と行為を説明できるということである。

 物の機械論では、表象の成立を説明できないと『第一序論』(SW1-439)でのべている。

 

3、フィヒテはなぜ二元論の可能性を否定するのだろうか。

物質から精神がどのようにして生まれるのか、を説明することは、今日の心の哲学にとっても中心的な難問である。そして、現代の多くの哲学者もまた、二元論を取らない。ただし、彼らは観念論ではなくて、唯物論を採用する。

 

4、もう一つの可能性、懐疑論

観念論と唯物論の間で決着がつかないとき、なぜ懐疑論にならないのだろうか。

『第一序論』では、観念論か唯物論かの選択は、理論的に出来ないので、決断によるとされるのだが、その決断は、関心に基づくとされる。ここから、我々は関心が、懐疑主義にならない理由として考えられているように思われる。

 『全知識学の基礎』では、懐疑論は自己矛盾しており、「だれも本気で懐疑論者であったものはない」SW1-120と述べている。

 

 科学研究においても、理論間の共約不可能性が言われるとき、懐疑論が主張されるわけではない。理論間の共役不可能性が主張されるときにも、理論の選択は行なわれる。しかし、その場合には、その理論の基礎付けは出来ていないので、可謬主義に立つことになる。

 

注:『全知識学の基礎』での二つの体系と懐疑論についての発言

 「独断論は、「超越的で」である。なぜなら、独断論は自我を超えてさらになおすすんでゆくのであるから。独断論が徹底的でありうる限り、スピノザ主義はその最も徹底した産物である。」SW1-120

「独断論は、徹底的な独断論は、自分が疑っているということを疑う「懐疑論」である。なぜなら、独断論は意識の統一を廃棄し、かつこれとともに全論理を廃棄しなければならないからである。したがって、独断論は決して独断論ではない。そして自ら独断論であると称することによって、自己矛盾するのである。

 *ただ二つの体系のみがある。批判的体系と独断的体系である。懐疑論は、先に規定したように、けっして体系ではないであろう。なぜなら、懐疑論はまことに体系一般の可能性を否認するからである。しかしながら、懐疑論は上の可能性をただ体系的に否定することが出来るだけであり、したがって、それは自己矛盾し、かつまったく背理である。人間精神の本性によって、既に懐疑論は不可能であるように配慮されている。まだだれも本気でこのような懐疑論者であったものはない。ヒュームやマイモンやエネジデムスの批判的懐疑論は上のものとは異なっている。」SW1-120

 

■参考図書

フィヒテに関しては、『知識学の概念』『知識学の第一序論』『知識学の第二序論』

などの短い論文をまず読んでみてください。長いのであれば、『人間の使命』が入門としては、よいと思います。翻訳は、複数あります。

そのほかには、拙著『ドイツ観念論の実践哲学研究』弘文堂、のフィヒテの部分を見てください。